沖縄復帰と自分
- 2017年05月16日
- テーマ: 沖縄の歴史
昨日の記事で5月15日「沖縄復帰記念日」のことを記事にしていましたが、唯一!昇龍祭太鼓のメンバーで沖縄復帰を経験しているのが自分なんです。
当時の自分は3歳。
うぅ!こういう時に改めて自分の歳を感じてしまいます。
あぁ~、歳はとりたくないですなぁ~(T_T)
アメリカ統治時の思い出
私が生まれたのは1968年の11月。
その頃、沖縄ではアメリカの統治下で生活をしていました。
第二次大戦で敗北し、沖縄がアメリカの占領下におかれ、日本に復帰したのが27年後。
まだ自分が3歳半くらいで、そのころまで沖縄はアメリカ世(ゆ)だったわけです。
復帰前のアメリカ統治下ではっきり覚えていることがあります。
それは、母親がまだ乳児だった長女を抱っこし、近くの「マチヤグワー(雑貨店)」に$ドルでアイスクリームを買いに行ったときのこと。
アイスクリームを買ってもらって、大はしゃぎで、母親たちを後にダッシュで家へ帰りました。
しかし家の前には、2頭の野良犬が。
その野良犬に恐怖を感じた自分は、来た道を母親のもとへダッシュで戻りました。
でも、その後を野良犬も猛ダッシュで追いかけてきて、背後から幼い私の左腿を思いっきり噛んでいったのです。
腿には大きな歯型の穴があき、その後の病院では「狂犬病の危険性もあるから」と、でっかい注射を打たれ、Wで痛さを感じる最悪の日になってしまいました。
だからなのか、その日に使ったドルコインの事を今でも鮮明に覚えています。
ちなみにこの写真は3歳の「七五三」時の写真です。
母親は琉球銀行のマドンナとして有名だったそうで、従兄弟同士の間でも
「親父がどうやって口説き落としたのかが不思議だ」
なんて話しをよくしていたのも覚えています。
確かに・・・
うちの親父は、’あるよ!’俳優の「田中要次」と爆笑問題の「太田光」と「いかりや長介」を足したような顔。
自分は父親にあまり似ていなく、母親似でよかったなぁ~と常々思っていました(笑)
話は逸れましたが、アメリカ統治下での生活といえば、自分や妹の誕生日などに、父親が軍施設内で買ってきた大きなバースデーケーキも想い出の一つかな!
ちなみにニッカウヰスキーの後ろにいるのが自分です。
右側通行から左側通行へ
また、昨日の記事にも紹介された1978年の右側通行から左側通行に変わった「730」の日も那覇市内のバイパス(330号線)の歩道橋の上から観たのを覚えています。
確か車のヘッドライトに銀色のテープを貼っていて右車線から左車線へ変更する時に対向車が眩しくて事故を起こさないようにと処理されていたかと思います。
そんな経験をしているのも昇龍の中では、確実に自分だけですね!汗
うちなーんちゅとして
沖縄の歴史は本当にいろいろあります。
一人のうちなーんちゅ(沖縄人)として48年間、いろいろな沖縄を見てきました。
良いところもあれば、悪いところもあり、そこを直していきたいと考えたり、沖縄らしさがあっていいんじゃない!と想ったり、、、
故郷への想いは様々ありました。
沖縄から東京に上京したのが、唄ではありませんが「19の春」でした。
いまでは東京での生活の方が長くなりましたが、沖縄愛は今でも変わらず持っています。
私の役割は、お祭りを通して沖縄の良さを伝えていくことだとと想っています。
伊志嶺さんと同様、これからも沖縄愛を持って発信し続けていきますので、皆さま、これからもよろしくお願いいたします。