対馬丸記念館
- 2018年06月26日
- テーマ: 沖縄の歴史
今日も昨日に引き続き、沖縄の歴史について。
沖縄では「慰霊の日」がある6月は平和学習の時間が多く取られるとのこと。
今一度、私達も平和について改めて考える事が必要なのかもしれません。
そんな想いを今日は奈美ちゃんからお届けします。
学童疎開
こんにちは。
メンバーと話していて知らない人も多かったので皆様にも知っていただけたらと思い、今日は少しだけ戦争に関わる記事を書きました。
とても悲しいお話ですが読んでいただけたらと思います。
1941年12月8日に始まったアジア太平洋戦争。
日本は勝ち続けていました。
しかし1944年7月サイパン島が占領され
「サイパン島の次は沖縄が攻撃される」
と判断した軍は人々を疎開させることにしました。
今日はその学童疎開で起こった悲劇をお伝えしたいと思います。
対馬丸
対馬丸は1944年8月21日。
疎開のための学童834名、引率と一般827名。
他に船員や兵員を含めた1788名を乗せ那覇港を出発しました。
この対馬丸。
疎開船ではなく実は貨物船でした。
しかし戦争が始まってからは兵員を輸送するため船倉に二段の棚が作られ、この日は疎開する人々が乗り込みます。
この日、2隻の護衛艦に挟まれ対馬丸を含む3隻の貨物船が本土へ向かいました。
子供達は
「ヤマトへ行ける!」
と喜び、親たちは不安な気持ちで見送ったそうです。
窓もない船倉は暑く、中には抜け出して甲板で流れ星を見た子供達もいました。
横ではおばぁが手を合わせてうーとーとぉーしていました。
出港の翌日
8月22日夜10時すぎ。
対馬丸はアメリカの潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃をうけ海へと沈みます。
人々はいかだなどにつかまり暗い海のなかをさ迷います。
台風が近づくなか何度も波が打ちつけるいかだは舵をとることも出来ず必死に掴まることしか出来ません。
運よく島へつけた人、漁船に助けられる人々も居ましたが8割もの人々が海で亡くなりました。
対馬丸記念館
当時は戦時中。
対馬丸の撃墜に関して箝口令(かんこうれい)がひかれました。
そのためどれ程の人が犠牲になったのか、何が起こったのかの詳細はいまだに不明なこともあります。
時は経ち2004年那覇市若狭に『対馬丸記念館』が開館されました。
当時の様子を知ることのできる資料や映像を見ることが出来ます。
この記念館は犠牲になられた方々の慰霊とこの事件を正しく伝えるために作られた施設です。
対馬丸記念館は波の上ビーチ・波上宮から徒歩5分ほどのところにあります。
私はこの施設が出来た頃に何度か伺ったことがあったのですが、それから10年近く行く機会がありませんでした。
今年沖縄に行った際に少し時間が出来たので伺ってきました。
何度行っても胸が苦しくなります。
もしお時間ありましたら足を運んでみて下さい。
当時の事を伺い知ることが出来る施設です。